● イスラエル建国以前のパレスチナ
いまのパレスチナ自治区とイスラエルの両方を含む歴史的なパレスチナ地域には、アラブ人のムスリムとクリスチャンとユダヤ教徒らがともに生活をしており、宗教も民族も多様な地域であった。そこに19世紀末以降、近代国民国家の価値観を備えたヨーロッパ諸国家からのユダヤ人移民が、ヨーロッパで非国民として差別されてきた反動によって、自らの国家を建設するという目的で植民活動をおこなった。その際、旧約聖書に見られる宗教的言説(例えば「約束の地」や「ユダヤ人離散」)を近代国家の政治神話として読み替え、排他的なナショナリズムを鼓舞するのに利用した。これが1948年に「ユダヤ人国家」としてのイスラエル建国をもたらした「シオニズム」である。
●「ナクバ」から第一次インティファーダへ
20世紀前半を通じて発展していったシオニズム運動は、1930年代以降にはナチズムさえも一つのテコとして急激な拡大をした。第二次大戦直後47〜49年に大規模かつ組織的にパレスチナを軍事侵攻し(48年5月のイスラエル建国より第一次中東戦争)、それにともない大量のパレスチナ人が故郷を破壊され、当時の人口の半数以上が難民となった。この出来事をアラビア語で「ナクバ」(破滅/大災難)と言う。
以後、周辺アラブ諸国に問題の解決を期待する向きが強かったが、67年の第三次中東戦争でアラブ諸国が大敗し、イスラエルがパレスチナ全域を占領したことで、抵抗運動の中心は国外難民となったパレスチナ人によって担われるようになる。だがPLO(パレスチナ解放機構)をはじめとする組織的な抵抗運動の拠点となった隣国のヨルダンやレバノンは、イスラエルによる軍事報復の回避やイスラエルとの政治交渉のために、パレスチナ難民らの弾圧や抵抗運動組織の追放をおこなうに至り、PLOは70年にアンマンを去り、82年にはその移動先であったベイルートも追われ、チュニジアに亡命をすることになる。
こうして終わったかに見えた抵抗運動は、87年のインティファーダ(民衆蜂起)の勃発でもって、イスラエルの占領下にあるヨルダン川西岸地区とガザ地区の内部に舞台を移す。抑圧と差別を受けながら沈黙を強いられ、世界からも黙殺されていた占領下の人びとが立ち上がったのである。
● オスロ合意から第二次インティファーダへ
継続するインティファーダ、90年のソ連邦崩壊、91年の湾岸戦争など世界情勢の変化を受けて結ばれた93年のオスロ合意は、「歴史的和解」として世界に歓迎された。PLOが公式にイスラエルの交渉相手として承認され、チュニスからガザに、そして西岸ラマッラーに「帰還」をし、パレスチナ自治政府をつくった。世界はイスラエル国家とパレスチナ自治政府ととりわけイスラエル企業に対して、政治・経済関係を持てるようになったことを喜んだ。ところが、オスロ合意は、何らパレスチナ民衆の権利を回復するものではなかった。難民の帰還権を無視し、パレスチナの土地を収奪し切り刻んでいるユダヤ人入植地を容認し、水利権のイスラエル支配を認めたままの「合意」であり、その内実はただ「自治政府を交渉相手とする」というだけの空疎なものでしかなかったのだ。
他方で、オスロ合意以降に急増する海外からのイスラエル産業への投資による恩恵からパレスチナ人は排除され、またパレスチナへの国際的な資金援助は自治政府周辺にだけ集中し民衆は置き去りにされた。自決権はなく、差別と経済格差はむしろ深刻化した。この不満の蓄積が、2000年の「第二次インティファーダ」の勃発につながる。この民衆蜂起で人びとが抗議・抵抗をしているのは、イスラエルの占領政策そのものに対してであり、それを支える国際的な枠組みに対してなのである。
この第二次インティファーダの最中に、イスラエルによる分離壁は計画・建設されていった。
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◆ パレスチナ/イスラエルにおける「暴力/非暴力」について
テロ=暴力、と捉えることはたやすい。もちろん、イスラエルの一般市民を巻き込んだバスや繁華街での自爆や時限爆弾によるパレスチナ武装組織の攻撃は、「テロ」と名指されても仕方のない「暴力」ではある。だが、それに乗じて、パレスチナ側の抵抗運動一般を「テロ」とレッテル貼りし、貶めようとするのがイスラエル側の戦略であり、そして世界中のメディアがそれを無批判に受け入れてしまいがちである。かくして、パレスチナと言えばテロの代名詞となってしまう。
だが、爆弾や銃弾に頼らない抵抗運動だってもちろんある。ISM(国際連帯運動)による非暴力直接行動はその典型と言えるだろう。デモンストレーション、イスラエル兵やユダヤ人入植者の暴行の監視、などだ。第二次インティファーダに対する弾圧で猛烈な軍事侵攻が継続されるなかで、ISMはイスラエル人や外国人の活動家の支援によって生まれた。地元パレスチナ人が運動の一翼を担いつつも、拘束・逮捕・暴行といったリスクの高いパレスチナ人に代わって、要所要所でイスラエル人や外国人が「楯」として前面に立つということもある。
しかし、いまから第一次インティファーダを振り返ると、国際的な注目もイスラエル人からの注目もより少ないなかで勃発した、87年の最初のインティファーダでとられた戦略は、おのずと地元住民によるほかなく、また、ISMにはごく一部の直接的行動力のあるパレスチナ人の若者がおもに参加しているのに対して、第一次インティファーダ時はより住民組織によるものであった、と言える。すなわち、67年からの20年にわたる全面占領によってパレスチナとの従属経済に頼っていたイスラエル当局に対して、ゼネスト、税の不払い、不買運動といった手段で、占領の構造そのものに全住民的に抵抗したのである。
イスラエルは占領地パレスチナを、安価な労働力の供給源、安価な原材料・半製品・日用雑貨の供給源、イスラエル製品の販売先、として、経済構造のなかに組み込んでいたのである。もちろんパレスチナ人からは、占領「統治」によって税の徴収もおこなっていた。したがって、それに対する最大の抵抗は、これら一切の政治経済関係の拒絶ということになる。
「石の革命」とも言われ、投石によって象徴される第一次インティファーダではあったが、むしろ抵抗そのものについては、ゼネスト、税不払い、イスラエル製品不買などのほうが、より中心的であったし、また全住民的な参加によって担われたものであった。
かつてヴァルター・ベンヤミンは、有名なエッセイ「暴力批判論」(1921)で、法権力・警察権力もまた暴力であると批判した(なおドイツ語では、暴力も権力もともに「ゲバルト」だ)。すなわち、無根拠にも制定された法権力は、突然に自らを合法性によって正統化し、それに反するものを不法であると裁く。つまり、乱暴を働くイスラエル兵や入植者だけが暴力なのではなく、占領「統治」そのものが一つの権力であり、つまりは暴力であるということになる。それがいかにイスラエルの政令や軍令に従っていようと、イスラエル側がいかに法治を自任しようと、しかし、合法的であることはなんら暴力的でないことを意味しない。むしろ、権力は暴力の謂いであった。
そしてベンヤミンは、そのエッセイのなかで、対抗的な権力を構築することでは暴力批判たりえず(原理的にもう一つの暴力となることが避けえない)、そうではなくそうした権力関係すべてを宙吊りにする「プロレタリア・ゼネスト」こそが暴力批判の可能性を秘めていることを示唆する。ここでは細かなベンヤミン解釈の是非は問わない(際限なくあるので)。ただ示唆として利用させてもらうのであれば、第一次インティファーダのときに見られた被占領民のゼネスト(とその他のボイコット運動)は、非暴力運動の一画期をなしていたように思われる(被占領民はプロレタリアとイコールではないかもしれないが、市民=ブルジョアではない無権利者であるという点でプロレタリであることは間違いない)。そして新たな権力についたパレスチナ自治政府が、もう一つの暴力装置を構築していることも指摘をまたないだろう。
第二次インティファーダ期と、ポスト第二次インティファーダ期とも言うべき現在、おもだった抵抗運動は、いくつかの少数先鋭的なグループによるものしかない。そうしたなかでISMは最もうまく継続している部類の運動と言えるし、貴重な役割を果たしている。そのことは否定しえない。ただ、二つのインティファーダにおけるそれぞれの「非暴力抵抗運動」には質的な違いがあるように思われる。なので、これを機に、もう少し長いスパンで「暴力/非暴力」や「抵抗」ということの意味やかたちを考えたいと思う(繰り返すが、ISMの活動意義は十分に認められるべきだし、さまざまな問題提起もしている)。
(文:早尾貴紀)
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