私とパレスチナ、そしてイスラエルとの関わりは2004年に遡ります。
当時、長期旅行中だった私は、ヨーロッパ各地を転々とし、トルコ・シリア・レバノンを経て、聖地エルサレムへと向かいました。
まず、イスラエル入国で待っていたのは過剰なセキュリティでした。レバノンやシリアのビザを持っていた私は半日ほど待たされ、ようやくイスラエルに入国できました。
たまたま泊まった安宿には、普通の旅行者だけでなく、ジャーナリストや活動家がたむろしていました。
そのなかに、八木健次さんという写真家がいて、ちょうど分離壁に関するドキュメンタリーを作っているのだと聞きました。
私自身、日本を旅立つ前にビデオ編集を仕事としていましたので、そのプロジェクトに興味を持ち、同行取材するようになりました。そこで目にしたのが、美しい旧市街とは対照的な、パレスチナとイスラエルを分断する壁やチェックポイントでした。
それまで40以上の国を見てきましたが、ここまでの紛争を目の当たりにすることはなく、少なからず衝撃を受けました。
アザウィア村の壁建設反対デモの取材では、初めて催涙ガスを経験しました。
パレスチナ人に混じって兵士たちに涙ながらに抗議するアメリカ人女性に心を動かされました。
また、ヘブロンの元兵士たちが主催した写真展「ブレイキング ザ サイレンス」も取材し、元イスラエル兵士の中にも自分たちの行いに疑問を投げかけている人々がいるのだな、ということを知りました。
そうして私は、このプロジェクト「THE WALL」の編集・助監督をすることに決め、日本に帰りました。それが2004年7月のことです。
「THE WALL」が数ヶ月をかけて完成し、小規模ながら上映を何度か手伝ったりもし、そして一年以上が経ち、今度は自分で何か出来ないかとカメラを買って、2006年の5月から6月にかけて、パレスチナに再訪問しました。
現地の人々の協力と、半年ほどの翻訳と編集を経て出来たのがこの作品「ビリン・闘いの村」−パレスチナの非暴力抵抗−です。
彼らの非暴力の闘いはすでに3年以上続いており、2007年9月には村の分離フェンスのルートを変更するようにとのイスラエル最高裁の判決がありましたが、それが本当に実行されるのかどうかはまた別の問題だと聞いています。
イスラエル政府は、国際社会が決めたグリーンラインを無視し、パレスチナに与えられたはずの西岸の土地に120以上の入植地を建設し、主な入植地を分離壁・フェンスでさらに囲み、チェックポイントを設けてパレスチナ人たちの行動を制限しています。
この政策は、国際司法裁判所から停止勧告を受けています。
そういった見えにくい土地収奪、水資源の確保などが民族浄化の一手段として継続的に行われており、そういった日常が、パレスチナ人の困難をさらに難しいものとしているということを、この映像を通して広く理解されるきっかけになればと思います。
|