19世紀後半以降からヨーロッパのナショナリズムの影響下で興隆したユダヤ人ナショナリズム運動。ヨーロッパ地域における「国民国家」の広まりとともに、「離散の民」とされたユダヤ人が「非国民」として排斥されたため、ヨーロッパの外部のどこかにユダヤ人のための新しい領土国家を築こうという運動が起こった。さらに、ユダヤ教の信者としての「ユダヤ人」が、人種主義の影響によって実体的な「ユダヤ民族」に読み替えられ、「血のナショナリズム」も生じた。20世紀に入ってからは、ユダヤ教聖書にも由来をもつパレスチナの地に狙いが定められ、先住のパレスチナ人を無視したユダヤ国家建国運動となっていく(1948年にイスラエル建国)。

 なお、こうしたユダヤ・ナショナリズムの思想運動を「シオニズム」と呼ぶが、「シオン」とはエルサレム旧市街の丘の名前とされ、つまりはエルサレムを、ひいてはパレスチナを目指した移住の運動を全般的に「シオニズム」と呼んでいる。なかには、現在のイスラエル国家のみを「ユダヤ人国家」として限定する穏健な立場から、ヨルダン川西岸地区・ガザ地区を含めるべき(そこのパレスチナ人も追放すべき)だとする強硬な立場まで開きはある。前者をシオニズム左派、後者をシオニズム右派などと分類することもあり、シオニズム左派には、ピース・ナウやグッシュ・シャロームといった平和団体の人びとも含まれるが、いずれにせよ、ユダヤ人の排他的な特権を認める点において、シオニストであることに違いはない。

 

    
 


ユダヤ人入植地とイスラエル軍兵士

  現在の狭い定義では、1967年の第三次中東戦争によって、イスラエルがパレスチナ全土を占領下において以降、ヨルダン川西岸地区とガザ地区の内部に建設された、ユダヤ人居住地。2005年にガザ地区の入植地は撤去されたため、現在ではヨルダン川西岸地区にのみあるユダヤ人居住地を一般的には指す。もちろん、イスラエルが一方的に「併合」を宣言した東エルサレムも、国際的には占領下にある西岸地区の一部であり、東エルサレムの入植地も当然入植地に含む。イスラエルの報道や日本の報道で、入植者の人口を「25万人」とすることが多いが、東エルサレムの入植者20万人を含めて「45万人」とするのが正しい。
 また、同じく67年から占領下におかれているシリア領ゴラン高原に建設されてきたユダヤ人居住地もまた「入植地」であることには変わりない。
 ところで、歴史的に見れば、イスラエルが建国される以前の19世紀末から徐々に集団入植していったユダヤ人移民たちによってつくられた共同体もまた、「入植地」と見る立場もある。結果的に1948年のイスラエル建国(翌49年までにさらに領土を拡大させて第一次中東戦争を停戦)によって、そのユダヤ人共同体(「イシューヴ」などと呼ばれる)も「国土」の一部となったため、一般的には現在のイスラエル領内のユダヤ人居住地が「入植地」と呼ばれることはない。しかし、建国そのものが不当な暴力によるものであると考える立場のパレスチナ人は、現在のイスラエル領のことを「48年占領地」(それに対して、西岸・ガザを「67年占領地」)と呼ぶことがあり、そうした考え方に立てば、イスラエル内部のユダヤ人の町もすべて「入植地」とも言える。

 もちろん、一元的にそう呼ぶことは混乱をもたらすため有効ではないかもしれないが、しかし、歴史的には、建国前からの入植活動も、67年の占領以降の入植活動も、実力行使によって土地収奪の既成事実を積み重ねるという点においては一貫しているという視点は重要である。

 

    


カランディアチェックポイントと周辺の分離壁

 

 パレスチナ被占領地から「テロリスト」の侵入を防ぐという名目で、2002年頃からイスラエルがヨルダン川西岸地区全体を囲い込むように建設を進めている、コンクリートの壁ならびにフェンス・鉄条網・堀・監視塔などの総体を指す。分離壁はイスラエルとパレスチナ自治区を分かつグリーンライン(境界線)上にあると思われがちだが、実際には複雑なルートで西岸地区内部のユダヤ人入植地をイスラエル側に取り込むように建設されている。市街地周辺では、コンクリート壁の高さは6メートルから8メートルにも達し、空間を完全に分断している。また、フェンスや鉄条網の両側には、軍用車の道路や堀などが設置されており、それも含めた幅は数十メートルにもなる。
 そのため、広大な壁の用地となったパレスチナ人の土地は強制的に没収され、多くの家屋や畑が破壊された。また壁の反対側(つまりイスラエルに近い側)に取られた地域は、ヨルダン川西岸地区の一部であるにもかかわらず、西岸地区の主要な部分からは切り離され、しかしだからと言ってイスラエル側に自由に行けるわけではなく、孤立させられている。
 とくに西岸地区の北部のユダヤ人入植地(パレスチナのトルカレムやカルキリヤ周辺)は、豊かな水源地帯を収奪する目的で帯水層の上に作られているために、分離壁もまたそうした入植地・帯水層のラインに沿っている。これによってイスラエルは、水源地帯を完全なコントロール化におくことができる(分離壁建設以前から占領地の水利権はイスラエルが支配してきたが)。

 なお公的には、「分離壁は将来的な国境ではない」とされているが、しかし、パレスチナ全土をユダヤ人国家にすべきだとするシオニスト右派・大イスラエル主義者らは、分離壁の建設に反対している(もちろんパレスチナ人のためではなく、全面的な支配という目的のため)。また他方で、ファタハ政権下にあった当時のパレスチナ自治政府は、分離壁の計画段階や建設開始当初においては、壁が国境となる可能性を信じたためか、地元住民の声を無視し(対イスラエル関係で政権を護持することを優先し)、積極的に分離壁に反対を唱えなかった。

 

    
 

 イスラエルと周辺アラブ諸国との「休戦ライン」。停戦協議において、地図上に緑色の線でひかれたために「グリーンライン」と呼び習わされている。
 1947年11月に国連がパレスチナ分割決議を行なって以降は、事実上ユダヤ軍とアラブ義勇軍とのあいだで戦闘状態に入っていたが、1948年5月にイスラエルが建国されるとすぐに、周辺アラブ諸国との第一次中東戦争となった。49年に入ってからイスラエルはアラブ各国と順次休戦協定を結んでいったが、その時点での休戦ラインがほぼ現在のグリーンラインとなっているが、67年の第三次中東戦争の休戦協定によってグリーンラインの位置に変更がわずかに加えられている。
 47年の国連分割決議のラインでは、「アラブ国家」に割り振られた範囲に、北部はナザレやアッカも含むガリラヤ地方や、南部はベエルシェバなども含まれていたが(パレスチナの地全体の43パーセント)、49年の休戦時点では大きくイスラエル軍に攻め込まれ(上記の地域もイスラエル領となった)、パレスチナの地全体のわずか23パーセントがアラブ側に残されるのみとなった。その休戦ラインが、現在のヨルダン川西岸地区とガザ地区とを形成し、国際的に認められたイスラエル領との分割線となる。もちろん東エルサレムはヨルダン川西岸地区の一部であり、グリーンラインは西エルサレムと東エルサレムとのあいだにひかれてある。イスラエルによる東エルサレムの併合(1980年)は一方的な宣言にすぎず、国際的には認められていない。

 なお、49年の「休戦ライン」も、そこで戦闘が膠着したというよりは、むしろそのラインまでユダヤ人の入植活動が進展し、既成事実としての土地確保が進んでいたという側面がある。したがって、67年以降のヨルダン川西岸地区内部への入植活動や分離壁建設もまた、建国前から一貫して続く「最大領土の確保を進める既成事実化」の延長線上にあるとみなすことができる。シオニスト左派が現在のグリーンラインで国境画定を考える傾向が強いのに対して(それでも東エルサレムを手放そうとしない「左派」がほとんどだが)、シオニスト右派はグリーンライン自体の抹消を主張する傾向が強い。

 

    
 

 第一次インティファーダは、1987年にパレスチナ被占領地(ヨルダン川西岸地区およびガザ地区)内で起きた、自発的な民衆抵抗運動。それ以前のパレスチナ人のおもだった抵抗運動は、ヨルダンやレバノンを中心拠点として武装組織によって担われてきたが、1970年にPLO(パレスチナ解放機構)はヨルダンを追放され、82年にレバノンを追放され、チュニスに拠点を移し、事実上の亡命指導部となっていた。
 だが、87年にガザ地区内でイスラエル軍によって引き起こされた交通事故(パレスチナ人4人が死亡)をきっかけに、抗議活動が各地に飛び火し、全土的な抵抗運動へと展開していった。これによってパレスチナ人の抵抗運動の舞台は、パレスチナの外部(ヨルダンやレバノン)から内部に移った。抵抗のかたちとしては、イスラエル軍の戦車や武装した兵士に対して投石で立ち向かったことが知られるが、実際にはゼネストや税金不払いなどの集団的な非暴力抵抗も活発だった。それに対するイスラエル軍の暴力的な弾圧は徹底したものであり、子どもも容赦なく射殺していった。
 90年代に入って運動は沈静化し、93年のオスロ和平合意へと至るが、チュニスから「帰還」してパレスチナ自治政府の利権を独占した古いPLO指導部は、実際にインティファーダを担った若い世代との軋轢を生み出した。
 2000年からの第二次インティファーダは、1993年のオスロ合意以降、占領が終わらないどころか、被占領地における入植政策や東エルサレム併合がむしろ進められたこと、「平和の配当」(経済効果)が民衆に届かないことなどへの不満が蓄積したものが、アリエル・シャロン(当時リクード党首/後にイスラエル首相)の挑発行為(エルサレム旧市街のアル・アクサー・モスクの強行訪問)によって爆発したもの。
 ただし、第一次インティファーダに比べると、第二次インティファーダにおいては、武装組織が前面に出ており、自爆攻撃などの手法も頻繁にとられたことや、01年の〈9・11〉の反動としての「テロとの戦争」をシャロンが利用したこともあり、抵抗運動に対して「テロ」というレッテルが貼られ、パレスチナ人=テロリストという偏見が横行した。被占領地へ全面的な軍事展開がなされ、各地で道路が寸断され、町の出入り口や要衝に軍事検問所やロードブロックが設置され、交通が遮断され、町のなかでも外出禁止令が頻繁に出されたことによって、パレスチナ人の日常生活は壊滅的な打撃を受けた。

 こうした状況下にあって、国際連帯運動(ISM)などのグループが、地元パレスチナ人とイスラエル人・外国人のボランティアの協力によって、検問所や分離壁に非暴力で反対するなどの活動を展開している。

(文:早尾貴紀)